昭和40年05月20日 朝の御理解
小倉の初代の連合いであります桂みつ先生が、娘のご時代沙美という所から御本部へ、毎日毎日ご自分の体が弱い為に日参をなさっておられた。お参りしてもお参りしてもおかげ頂かん。そこである時に二代金光様、四神様のご時代ですね。金光様村内で私のことを、信心気違いのようにその申しますと。毎日毎日人は忙しいと言うて山に行ったり谷に行ったりしておるのに、私だけは毎日毎日こうやって、神様参りをしておる。
それにも関わらずこうしておかげを頂ききらんのは、どういう訳でございましょうかと。本当に何かこう、お、芹の根でも水洗いをした時のように、すっきりとしたおかげを頂けんものでしょうか、と言うてその、お尋ねになったそうですね。あの芹の根って言うのは、水を洗いよ、洗いをいたしますともう真っ白、すっきりするもんですね。そのすっきりしたおかげを頂けんものでしょうかっち言うてから、お尋ねなさったっち。
したら四神様が信心にも色々あるがのと仰った。色々あるけれども、まぁお参り信心が一番じゃ、と仰ったそうです。まぁ一端お参りすることじゃと仰られた。どういう信心させて頂いたらよいでしょうかと、言うお伺いに対してですね、一端参ることじゃと。まぁそのまま一生懸命お参りしよりゃええという意味でしょうね。お参りしておるうちには、話も身に付くようになり、信心の有り難さも分かってくるようになると。
ほいがああした、ん、あの、お話を伺いますと、歯槽膿漏だったそうですね。もう体全、大体がもう、その闇袋といわれるほどに、体がお弱い方だったらしい。桂先生の、奥様になられるまででもそれは随分体が弱かったらしい。けどもああして、健康のおかげを頂いてから、八十お幾つでしたですかね、長生きのおかげを頂かれたんですけれども。お参りをすると言うこと、特に御日参りをすると言うことが、私はお道の信心の一番のまぁ言うなら、修行じゃならろうかと思うですね。
どんなにこうしょうのことを申しましても、ね、その、おひ、いわゆる御日参り的信心。ね、それは椛目のごとありゃその遠隔地におられる方達がですね、毎日日参をすると言うことは出来ませんにいたしましても、いわゆる御日参り的信心と言うもの、が私は一番大事じゃないだろうか思う。昨日ある方が、お参りしてみえましてね、昨日一昨日ですね、月次祭の晩の、あの、お説教を頂いてから、丁度お説教はいっ、もう始まった時分に参ってみえとったわけです。
あのそれの向こうの方へ座っておられました。ほしたらもう途端にあのお叱りでしたから、思いっきり私一人が怒られとるようじゃったち(笑い)。もう本当にもう身の縮むような思いがいたしましてから、あっこりゃ親先生が仰る通りだと。本当に今日は私一人のためにあんな沢山の人達が怒られなさった、というような責任すら感じたと。帰リ道にそのことを一生懸命思わせて頂いてから、本当におかげ頂かにゃいかん、おかげ頂かにゃいかんと思うてその帰らせて頂いてその翌日。
思いもかけないところから、相当まとまった金が入って来た。昨日そのお金を持ってから、御造営費の一部にして下さいっち言うて持ってみえたんですね。そしてその、そこでお届けをされるのがです、こうしておかげを頂いてからあの、御造営費のお供えが一部出来るおかげを頂きましたけれども、本当にあの信心の造営と言うことになると何にも出来とらんのに、これだけのおかげを頂いたち言うてです。ね、
例えばその前の晩をです、神様にお叱りを頂いて、それどころじゃないとただ思う位の信心しか出来てなかったのにも関わらず、今朝はこう言う風におかげを頂いて、してみると信心の御造営と言うことは、出来とらんが、信心の例えばこれだけのことのお供えが出来ると、これだけのひきあてであるところの信心の造営というものが出来ずに、造営費のお供えをせんなら、丸っきり空のような感じがいたしますとこう言う。だから家内とも、相談いたしましてから、ね、
これだけのお供えが出来ると、これはまぁ第一回のお供えとして、お供えさせ、まぁ第二回、第三回と言う風にして、お供えのおかげを頂きたいと思うんですけれどもです、ね、二回のお供えが出来るまでにはせめて、第一回のお供えをした分だけの信心の御造営が出来てからじゃなかなきゃ、二回は出来んねと言うて、家内と二人で、奥さんはめったに参って見えられない方なんですけれども、ね。
本な事あんたが言いなさる通りですねって言うてその、まぁ申しましたという話を聞かせて頂きながら私は有り難い事だなぁ、本当に御造営、御造営と言や、そのお金のお供えすりゃ、だけすりゃよかごと思うておる人もある。そりゃなるほど日頃の信心にもの言わせるっと言うのですから、それも日頃の信心にものが言えれ、らせられるのならそれで良いのでしょうね。日頃の信心が出来て、日頃の信心にもの言わせてから、そりゃ出来るのなら良いですけれども。
私は信心の造営、やはり信心の造営信心の造営と言うことはです、もう何よりもかによりもまず、信心の造営が出来なければ駄目だと言うこと。お供えを出したから信心の造営が出来た。ね、信心の造営が出きたからお供えが出来た。それはどちらが先になってもそりゃ、まぁ良いといたしましてもですたい、方一歩だけではいけないという事ですね。お供えが出来たから信心の造営が出来たという人もありましょう。
信心の造営が出来たら、御造営が出来たと思うただけでもおかげが頂けたというような、おかげを頂かせて頂かんならんと。私はこう特別にそれを思うですね。いわゆる果たして、さぁ信心のご、ここ信心のじゃない、御造営のことが始められてからです、ならどれだけ信心の御造営のことに一生懸命なっておるだろうかと。昨日ある方がやっぱり参って来た。熱心な、熱心ななかなか善い信心なさる方なんです。
息子さんが今年、高校へ入学のおかげを頂いとる。それも私立にしか出来んと言われるのに、県立におかげを頂いた。本当にそれにはもう一生懸命お母さんが日参をして来た。でやっぱりあの、そん御造営についての事についてのお届けがございましたから、○○さん、あの息子が高校入学の時には、あなた毎日日参でも出来たじゃないかって私が。したらもう顔を真っ赤にして、本当に先生そうですもんね口ばっかりで言うてから、で息子はどうでんこうでん高校の試験をおかげ頂かんならんと言う時には。
それこそ忙しゅうも何も言うちゃおられん、毎日日参させて頂いたとこう言う。そんならあんた信心のご造営にせめて一週間に一偏くらい、これはもう私の願いでもなからなければ(これでもない)ただ、ご造営のことのための修行がです、一週間に一偏くらい出来たっちゃよかそうなもんの、というて話したことでした。ね、これだけはです、これだけは信心のご造営の為の信心と、と言うものがなされてから、私はおかげを頂いても遅くはないと思うですね。
そういたしましたらですね、そういうお届けをさせて頂いておりましたら、あのう、三番目の、お三方の真ん中に、ん、お神酒のお供えが三本あってるでしょう。一番前にね、浮羽鶴と言うお酒がお供えになっとります。その横には、山の寿と言うお供え。その横には甘露という、ね、甘い露と書いてある。甘露というお酒が一台の三方に盛り合わせてあるわけです。あのお三方を頂くんですね。
ははぁこげな事一番初め私が申します。いっ四神様が仰ったとあれこれと教えられなかった。信心とは本心の玉を磨くものじゃから、信心とは日々の改まりが第一じゃから、といて肝心要の所に、に対外な私共のはすぐそこに言うとこですね。改まる事たいまぁ第一本心の玉を磨く事て、いくら聞いても聞いてもですよ、そうどこじゃない事が分かっとっても、改まりもしなければ磨きもせんなら、何にもならんでしょうが。
だから、その手前の手前のところのところを四神様は、みつ先生に教えられたんだとこう思うですね。信心にも色々あると仰る。ね、おかげば頂かんならんばっかりに一生懸命参って来るといったような今の、今息子がさぁ高校入学といや、日頃忙しゅうてお参りは出来ん人でも毎日日参が出来たと言うこと。そうじゃなぁと。ね、一端参ることじゃと仰っておられる。一端というのは、精一杯お参りをすることじゃと言うことだと思うんです。ね、あの浮羽鶴というのはそうだと思うですよね。
鶴のお知らせは、この信者の皆さんがです、例えば私のことを亀、亀の表現をして下さる。バックには、桂松平先生ですかね、石橋松次郎先生とか、というその松の信心が私のバックである。そこに松の根かた辺りには、亀がこうほうておるわけである。ここに沢山の鶴がですかね、千羽鶴なら千羽鶴でも良いです。鶴が亀の本に一生懸命通うてくる。丁度その図を思うてみてご覧なさい。後ろにこう、お芝居でやるその松羽目物って言うてね、後ろがもう、松の大きな老松が書いてある。
その前に、ま、亀がある。そこへ鶴がこの、舞い遊んでおるといったような一つの図柄というものを思うてみてご覧なさい。あ、目出度いなぁと。有り難いなぁっていう気がいたしますでしょうが。私はまず、浮羽鶴の信心からと思うですね。まず一端参ることだと思います。その一端参ることもです、今まで一の信心が出来ておった人達は二と。二の信心が出来ておった人はせめて一つを、ご造営の信心の、ご造営の為のお参りであるというようにです、ね、それを山の寿です。それをご造営のための修行とすると。
山の寿というのは、修行。そしておかげという意味と思うんですよね。山の寿、山を修行と仰る。ね、お参りいっぱいしておる中にです、信心の有り難さていうか、ね、放熱と言うか、どこから湧いてくるやら分からん、私はもう毎日毎日それを感心するん、感心するけれども、その方一人のために私は、晩の御祈念に弾むんです。これはこの裏の、篠原さんと言う方が、毎晩親子連れで、で参って見えます。
もうとにかく、もうこの間の月次祭の晩のですね、あのお叱りを受けておる時でも、あの方だけは涙を流して頂いておりましたですよ。ここのおばさんです。もう夜の御祈念にお参りされてですね、親と息子並んで御理解を頂かれますと、ここでは涙を流すところじゃないと思う所でもです、いうならばです、もう本当に涙ながらに頂いておられます。心磨いてからおかげを頂きまして有り難うございますと言うて、本当に涙流さんばかりして喜ばれますもん。
信心ていうものは本当にあの、私は思うですね、やっぱりいやあの、先生が育てれるのじゃないです、神様が育てて下さるんですよね。本当にその、そういうその、お参りをしておる内にです、ね、初めはご主人のこと、娘のこと、ね、ただ裏表におってから十何年間、んならお参りをしたことがなかったんだけれども、ね、それにはやはり、それまでに本当に、おかげを頂いておられます。
ご主人でも、言わば医者が見放すような病気だった。今度のあの息子さんが東京に行っておられますが、東京に行っておられます、息子さんがその、今度赤ちゃんが出来る。ですからその、お、名前を考えておるから、前の金、金光様に一偏お尋ねしてくれ、というようなことだった。ほりゃ生まれもせん先からその、娘ならどう息子ならどうっち言うことじゃった。そしたらですね、私は初めてだったあんな事は。ね。
今度生まれてくる子供のために、って言うてから、その、おー、お名前を頂いてから、次には次に生まれて来る子供の名前まで頂きました。まぁだ生まれるやら生まれんやら分からんのに。一、二ヶ月前、向こうから安産のおかげを頂いて、神様から頂いていた通りやっぱ息子が生まれたって言うてその喜んで来とる。まぁそう言う様なことからですね、本当神様の働きっと言った様なものを、やっぱり身近に感じられた。
そういうところからです、まず神様の実在にまず信じられるようになった。そして、神様の仰ることは全部教えと言う風に頂かれるようになった。だから、例えばもう、どこを頂いても涙が流れるほどに有り難いわけなんです。そう言う様なものを、私は今日は甘露と、いう事だと思うですね。甘い露ということ。有り難い有り難いという有り難いという、有り難涙のことを私は甘露と言うと思うですね。
いっぱしお参りしておるうちにです、訳が分からんなりに一端お参りをしておる中に、生きた神様の、言わば働きというものを段々分かる事が出来る。ね。次には、いわゆる信心に、世界の中でしか、味わうことが出来ない、いわゆるその甘露の、ような有り難涙に暮れることが出来る。それは一日の内のたったひと時ではありましてもです、信心ちゃ有り難いもんだなぁということ。
おかげが有り難いのじゃぁない、これが有り難いのじゃぁない。信心そのものが有り難いだなぁと分かる。ね、そういうようなものがです、いわゆる一端お参りをしておるうちに、出来るのじゃないだろうかと。こうやってお供えをさせて頂いておりますけれども、ね。ならこれだけのお供えの、それだけの信心な、先生が仰るようなご造営も何も出来とらんのですけれども。
家内と二人で話し合って、これだけの信心の造営をこれから出来なきゃならん、第二回のお供えをする時にはです、せめてこの第一回のお供えをさせて頂いた、ご造営費の内容である信心が出来なければでけんなぁと言うて、家内と二人で話しました、とこう言う。お叱りを頂いた時に自分が一人で、お叱りを頂いとるように思った。いや自分一人の為に皆さんが怒られておるように思うた。先生が仰っているのじゃないと思うたら、あくる日はおかげを頂いておる。
思いもかけないところから、思いもかけない金額のお供えを、お繰り合わせを頂いておる。問題はしんからそう思うということ。やはり一端お参りをしておらなければです、そういうチャンスにも恵まれないわけなのです。一端お参りをさせて頂いておるうちにです、ね、それを修行とさせて頂いておる中にです、普通は一回ならばです、ご造営のためにもう一偏というような信心がなされていくうちにです、ね、
甘露のような有り難い信心にも触れることが出来る。そういう信心がです、ね造営されて初めて本当の意味でのおかげが頂かれるのじゃなかろうかとこう思うのです。昨日の朝の、御祈念の後に大和さんがお届けをしておられますように、先生今朝方こういうお夢を頂いて、そのお夢の、で目覚ましのおかげを頂いたと言うておられます。大和の家の屋敷はです、その一端コンクリーで出来て、この基礎が固められておるところをお夢に頂かれたとこう言うのです。
私は大和さんの信心の造営が出来ておられる、との事だと私は思いました。ね、例えば今の、今現在は椛目のご造営がお土盛というところ。いわば、お土盛の信心が現在出来なきゃならない時だと私は思うんですよ。ね、今こそその基礎がコンクリーで固められていくようなです、基礎が出来ていきよらなきゃならない時だとこう思うんです。もうなん、もう何と言うても、まず信心の造営が第一だという事。ん、
息子の高校試験の時の、にはです、忙しくて参られない、忙しい忙しいと言うておられる私でも、やっぱり毎日日参をさせて頂いたとこう言う、その方のように。ね、ならせめてです、毎日は出来んでもです、ね、あんらご造営のためのお参りがです、一端お参りする、ね、まぁそうじゃなぁと。一端のお参りじゃと、こう四神様が仰るようなです、その一端のお参りをです、ご造営の為に当てさせて頂いておるような信心がです、まず初めらなきゃならないという事。
それを山の寿とす、いう修行に、で神様受けて下さる。一端お参りが浮羽鶴なら。次には甘露の方が、ね、頂けれるような機会を必ず神様が与えて下さるだろうと。ね、有り難涙に暮れながら、信心のご造営が出来る。有り難涙に暮れながら信心のご造営が出来る、その信心のご造営に共のうて、お広前のご造営が出来よるというのじゃなからなければ本当なことじゃないじゃないか、と言う風に思うのですよね。
おかげ頂かねばなりません。